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小野さつき先生 小野訓導 7月7日に心を打つ悲話かつ美談


FC2店へようこそ


あゝ 小野訓導(くんどう) 小野さつき先生 7月7日に心を打つ悲話・美談になります。

大正当時の人々だけでなく昭和においてもまた、さらには平成においてさえもこの悲話かつ美談を取り上げる人はまだいるのです。95年目でも、後世へ後世へと襷(たすき)を渡してずっと語りつがれているのです。

この話に出てくる人々がまさに『理想的日本人』と『教職の理想』とを表しているとずっと考えられてきたからですが、これは宮城県にあった実際の話なのです。

 

あらましは、大正11(1922)年7月7日に教え子と死を共にした小野さつきという新人女先生の壮烈で立派な死と、先生に関わる地元の人々の振る舞いがまたたく間に広く日本中の人に強い感動と涙を誘わせた話です。現代でも当時の感動が消える事はありません。

偶然にも七夕の日ですが表向き特には関係ありません。

教師として信頼に足る勇敢な行動だけでなく、後にこの話に出てくるさつき先生の父親他この地の人々の言動に、当時もそして今も『教育』と『日本人』の理想を見たと謳われている美談です。

文章がへたなのでこの感動が伝われば良いですが。

敗戦で断ち切られた、戦前までは続いていた古来の美風、大正デモクラシー期の関東大震災1年前の宮城県刈田郡蔵王町(当時は宮村)での美談です。



(弔慰金に添えられた学童の弔文)

先日刈田郡宮村の宮小學校の小野先生が受持(うけもち)の生徒を二人助け殘(のこ)る一人を助けやうとして死なれました、まことに悲しくあります。

私と弟が南洋の叔父(おじ)さんから貰(もら)ひました此(こ)の一圓(円)をどうぞ小野先生の御線香代として差上(さしあ)げて下さるやう御願ひ申し上げます。

七月十八日
仙臺(せんだい)市 立町小學校
五年生三澤淸子 三年生三澤健雄

弔文おわり



小野訓導とは小野さつき先生、訓導は教員免許状を持った正規教諭の当時の呼称です。

小野さつき先生肖像

小野さつき先生は明治34(1901)年6月14日生まれで宮城県刈田郡福岡村(白石市)出身、白石実科高等女学校(かつての県立白石女子高)より官立宮城県女子師範学校(今の国立宮城教育大学)へ進みました。成績も特に優秀で万事に気の付く模範的女子学生だったようです。

顔が特に美人でないところも良かったのでしょうか、古風な魅力的な振る舞いと性格に目が行きやすいためかお偉いさんにも同輩はもちろん後輩にも好かれ、子供にも父兄にも敬愛されたのです。

大正11(1922)年春の女子師範卒業後すぐに、明治6(1873)年創立の同県刈田郡 宮(みや)尋常高等小学校(今の蔵王町立宮小学校)へ赴任し、尋常科4年(今と同等の小学4年)を担任する新人女先生となったのです。


 


ではここから本文へと入って参ります。宜しくどうぞ。

やはりもう95年も前の話ですから、当時の本『殉職訓導 小野さつき女史 :宮城県教育会・刈田郡教育会著(大正11年 実業之日本社刊)』 『小野さつき先生 殉職美談 :野崎迂文著(大正11年 東京神田高文館書店刊)』 他なども参考にしながら書きました。


これは春に赴任してから僅(わず)か100日未満の1学期の事でした。

大正11(1922)年7月7日、宮城県刈田郡宮村(現蔵王町)の萬歳(ばんざい)川(白石川)の萬歳河原。

当日は一昨日までの梅雨の長雨も上がりよく晴れて、30度ほどとかなり暑かったようです。

宮尋常高等小学校尋常科4年担任小野さつき訓導(21歳)は、この七夕の日の5時間目に写生会を行おうと欠席児童を除く4年生児童 56名 (本来は66名のマンモス学級)と午後0時45分に校門を出て、さつき先生1人のみで附近の萬歳河原へ引率したのです。

現場の川幅はおおよそ55m、河原の多い場所で浅瀬が続いていて向う岸6m手前辺りまで近づくと急に深く(約2.4m)なって渦が巻き、流れが速くなる。一昨日までの長雨で多少増水もしていました。

白石川を当時の現地では萬歳川と呼び、対岸に鉄道線路が沿っていてここをかつて日露戦争中に毎日のように戦地に赴く兵隊さんを乗せた汽車が通りました。

以来、幾多の戦役(せんえき)に出征する兵隊さんを乗せた列車を宮村の村民がこの萬歳河原に並び立って、日の丸の小旗を手に萬歳萬歳とその首途(かどで)を見送った所だからだといいます。


前日の7月6日には、当時若き皇太子だった後の昭和天皇のお召列車が北海道視察の為にここを通過されました。

同じように川岸に児童を引率して小野さつき先生もここで萬歳をして、裕仁親王の通過をお迎えしています。これは前日の話です。

雨が止んで2日間続けて校外へそれも同じ川べりに出たのだから、当時の東北では水泳の季節には少し早いようですが児童のテンションはかなり高かったことでしょう。


先述紹介の当時発行本によれば、小野さつき先生の父は名を政治(まさじ)といい、この頃は農業をしているが武士道精神を持ち合わせた大変に厳格で村人から頼りにされる立派な人物でした。

さつき先生も厳しく育てられ若いながら女ながらに質素で肝(きも)も太く、いつしか小学校教諭になる事を熱望し始めたようです。

教育について熱心で一家言あり、その責任の重さをよく理解していた厳父。師範学校に進みたい、という娘のまだ青い願望には頑として反対していました。

それでもさつき先生は何度も懇願してついにその許しを得て師範学校に進んだ為、職務に強い責任感と旺盛な意欲を持って日夜励んでいたそうであります。

今ならば21歳の新米教師などと青二才扱いされるところを、学生時代より全く立派な日本全国教職員の眞(しん)に手本とすべき理想的な先生だったようです。

(現代にこそ、その精神を最も尊びたい時空を超えた立派な先生である、ということです)


しかし男勝りの胆力も有れば、一方慎重派でもある。

一例に、学校から萬歳河原へと出る途中に桑畑があって、それに沿って河原への近道である小道が通っているのですがそこには途中の溝(水たまり?)の上に少し危なげな一本橋がかかっていたのです。

よく知った児童たちが近道だからその小道を通りたいといっても、何か事故があってはいけないと先生は許可しなかったそうです。

先生曰く、何事も少しの時間を惜しむ為に危ない所を通ったり危ない事をしてはなりません、と。

親が子供を任せたい先生、という父兄と村の高い評判。

女先生で新人でありながら56名(当日は欠席10名、正規66名の4年児童を担任)もの活発な児童の大事な命を預かっているのであるから、先生は近道の誘いを戒め確実な桑畑の中を通って河原へ出ました。


川を前に、活発な児童たちが籠から放たれた小鳥のように喜び勇むのは自然な事です。

女先生の周りに群がり口々に「先生、川に入って遊びたいです」「先生、水遊びをさせて下さい」「いいでしょう??」と写生もそこそこに袖をつかみせがみました。

先生はきれいな風景を写生に来たのだから遊びに来たのではありませんよ、いけません。とその願いを斥(しりぞ)けていたのです。

しかし当日は約30度でとても暑く、あまりにも子等がしつこく熱心にせがむものだから ‥。

優しさも持ち合わせた先生は、それ以上はいけません‥とも言い兼ねてついに、条件つきでそれを許可してあげました。


「それでは、皆さんがちゃんと課題の写生を終えたなら少しの間なら、水の中へ入ってもよろしうございます」

「ただし泳ぐ事は絶対にいけません、浅い所で遊ぶんですよ、判りましたか」 と念を押して。


写生の出来に励みをつける為と、腕白(わんぱく)な子供たちに満足を与えてあげる為に『ちゃんと課題を終えたら』と条件をつけて許可すると、子供たちは大いに喜んで頑張って写生に取組みました。

すると成果は大いに上がって皆が課題を終えられたので、「みなさんよく頑張って終えられたから、お約束通り川へ入ってもよろしうございます」と先生は子等に告げました。


ただ、ここでも信頼に足るさつき先生は更に念を押し、「裸になって泳いではいけません、着物の裾(すそ)をまくって浅い所で遊ぶだけですよ、深い所へ行ってはいけませんよ」 と言い渡しました。

子供たちはそれは楽しそうで水の中ではしゃぎ狂って着物を濡らしたり、帯を流れに流して遊ぶ子等、浅瀬で転んで着物がびしょびしょに濡れてしまう子等の取り扱いに先生はとても繁忙でした。


そんな時に一部の児童から目が離れてしまったのです。


成澤与右衛門という子がいました。病弱で欠席が多く出席日数が足りない為2年続けて進級できずに学級に1人だけの13歳(数えでなく満だと12歳)という年長で、先生はこの子を何とか一人前に成長させてあげたいとかなり気にかけていたようです。
(後から邪推すると、一緒に死んだ遠因の一つになるのでしょうか‥)

先生が他の子に手を取られている隙(すき)に「あの対岸に(約50m先)小舟が繋(つな)いであるだろ、あすこまで(浅瀬を過ぎたら)泳いで行ってあの舟に乗って遊ぼうぜ」と4、5人に声をかけました。

それに応じた志村政雄君と大場徳治君の3人で先生の目を盗んで着物を脱いで裸になり、向う岸の小舟へと勝手に泳ぎ出しました。

浅瀬を越えると向う岸は近いが水深が急に深く(約2.4m)なっていて、流れが速く渦が巻く所でした。すぐに深みにはまったようになり3人とも溺れてしまいました。


小野さつき先生は、泳ぎもとても得意な先生でした。水練もやるし、馬術もやる。

厳格な父の下、文武両道を実践していました。

子等の急を聞き、「あ、大変だっ !!」と着物の袴(はかま)を脱ぐ事もせずにそのまま川に飛び込んだといいます。


午後1時や2時頃というと、当時当地では昼の長い昼寝休憩や食事の時間で川の附近の釣り人もその辺りの農地にも全く人影無く、全くもってこの急を若いさつき先生唯(ただ)一人が何とかしなければ間に合わなかったのです。

先生は着衣のまま飛び込んでまず志村君を小脇に抱えて河原へ上げ、すぐにまた取って返し大場君を抱えてまた浅瀬へ河原へと押し上げ、三度(みたび)深い淵へと身を躍らせて成澤君も助けんと向かって行ったといいます。


大場君を助けた後、袴が下がった為これを脱ごうとしたが水を含んだ紐(ひも)が固まって解(ほど)けず、止(や)む無く脱がずにそのまま又飛び込もうとして児童に危険だから止めてと袖を掴(つか)まれ制止されたが、しかしそれも振り切ってまた飛込んだそうです。

また川中に三度身を躍らせて成澤君に近づこうとする途中で袴がずり下がり過ぎたらしくそれを川中で締め直そうとして焦(あせ)ったらしかったとあります。

先生は2人も助けて体力の限界に近かったと思われ、袴も緩(ゆる)んで蓮の葉のようにぱーっと広がったり顔や手足に絡(から)まったりして泳いで前に進むのも困難な状態だったようです。


先生は自分が限界を超えているからともうあきらめて、最後の1人はどうしようもできなかったから泣く泣く赦(ゆる)してもらおうなどとそういうやわな精神の人では全くなかったようでありました。


身命を賭して教え子を助けん、それが適(かな)わぬならば

一蓮托生だ


気にかかる成澤君だから余計に‥だったのでしょうか。

武士道の精神を体現したような父の厳しい教えに育(はぐく)まれた、さつき先生の気高い強い精神が最後の気力を振り絞(しぼ)らせて奮い立たせていたと考えられ、壮烈鬼神をも哭(な)かしむるか!!

成澤君はずっともがいています。深みの引き込む強い流れにもまれて他の2人が救助されている間もあがいていました。

新人女先生は最後の気力と精神力をもって、たった1人だけで3人目の成沢君も助けようとしていましたが、袴が蓮の葉のようにひろがっては足や腕にまとわりついて泳げる状態ではありませんでした。

それでもなお溺れながらもがいている成澤君に狙いをつけ少しずつ近づきます。

男でも出来ないような心掛けを持って、流れの速い深みでもう限界のつらい苦しい自分に打ち克(か)ってそれでもなお教え子を救おうとしているのです。


あゝ 壯烈(そうれつ)
なんといふ雄々(おお)しさよ


95年前の大人はそう表現しています。男に勝る英雄的行為をたった1人の21歳の新人女先生が行っているのだから、軍隊もあったし武士道的価値観も少し残っていた当時でさえそれは無茶だと、常人の行いを遥かに超えているのだから、もう軍神に使われるような言葉で表現する他ないからでしょう。


先生の必死の努力はあと一間といいますから1.8m程まで近づき、ついに成澤君に触れようとした時に見捨てられていなかった事に最後に安心したのか憐(あわ)れ、成澤君は水面下に没しました。


成澤君に触れた小野さつき先生


さつき先生の顔には一層の焦る色が見えて成澤君を捜(さが)していましたが、水中に沈んだ成澤君が必死に先生の足や着物にすがったのではないかと思われ先生は髪が乱れて顔に貼りついて浮き沈みしていました。

が、最後に首を上げて河原や浅瀬の児童たちへ「早く、この事を学校へ知らせて下さいっ !!!」と叫んだと思うや水中に沈み、先生はもう浮き上がってこず、ついに帰らぬ人となってしまいました。

沈みゆく先生は児童の話では、束髪(そくはつ)が解けて黒い藻が広がって沈んでいくように見えたといいます。


60人余りの児童たちは「先生ーっ !!!」と一斉に泣きだしましたが、何人かは先生の最後の叫びを思い出し学校や近郷へ走って急変を知らせに行きました。

学校からすぐに手配し半鐘を鳴らしつつ事態を村人や消防団、警察署更に医者や各実家へ急ぎ知らせました。

そして各所へ話が伝わり、続々と大人が万歳川に集まりすぐに先生と成澤君の捜索が行われかなり潜水したりして探した後、川底から両名の遺体を発見しました。

両岸へ上げて医者が横について村人が何時間も人工呼吸を行いましたがだめでした。

続々と集まった村人たちも日頃評判で村人に好かれた先生を必死で蘇生しようと手を施しました。

ついに還(かえ)らぬその壮烈な最期(さいご)に、郡長・村長はじめ居並ぶ人々は感極まれり。

村人は声を上げて泣き、口々に嘆き悲しんで郡長・村長は村人の献身に頬を濡らせり。

この村人の純粋に泣かされたり。


成澤君の父は藤治(とうじ)という人で農家でしたが学校から息子と先生の急変を聞くと、急いで万歳川にかけつけました。

まず川底から息子の遺体を探し出すのに協力してくれた人々に丁重に礼を述べました。

それから息子の遺体をほんの少しの間見て落涙をしました、がそれに一言も発する事なく駆け寄りもせずに、すぐに小野さつき先生の遺体の横たわっている所へ急ぎ赴(おもむ)いたといいます。


(先生に)群がって嘆き悲しむ村人を掻(か)き分けて、さつき先生の傍らに両手をぺったりとつき、

「小野先生!! わしの子が悪戯(わるさ)をしたばかりに先生をこんなお姿にしてしまって何とも申し訳が有りません!!

小野先生!! 堪忍して下さい!!」

と両頬に涙を流しながら何度も頭を地面につけては、眞底(しんそこ)から先生の死を詫(わ)びるのでありました。


更に藤治さんは村の人々の方に向き直ります。

「村長さんをはじめ村のお方々、わしの子の為に村で好かれていたこんな立派な小野先生をこんなお姿にしてしまって申し訳が有りません !! 宥(ゆる)して下さい !!」

と、先生に対しても村人に対しても我が子の悪戯(わるさ)が、皆が慕う小野先生を死なせてしまった

と、頭を地につけて、親として一番にやらねばならない大切な事を間違えず、先生と皆に何度も眞底から詫びるのでありました。


居合わせた人々は藤治さんが息子の与右衛門君の死の事については皆の前で一言も口にせずに、ひたすらに先生の死のみを詫びたり口にしたりするその(正しき)態度にいたく感心しました。

そして村人の1人は、「先生が死んでしまったのは大変に残念だけれども、お前さんの息子も死んでしまったのだから(村人に)そう謝らずともよいから息子の事をやっておやりなさい」と藤治さんに答えてやりました。


一方、先生の父小野政治(まさじ)氏は、この頃病気を患(わずら)い足を不自由にしていました。

自邸で先生と教え子児童の急変を聞いた後、人々の止めるのもきかず馬に乗って萬歳川の現場に駆けつけます。

「皆さま、今日は娘の不束(ふつつか)で飛んだ事を仕出かしまして何とも申し訳ありませぬ」と村長、署長他村民など居並び嗚咽(おえつ)している人々に詫びました。

余計な物言わぬ古武士のような風格を帯びた中々にしっかりしたお父上だと皆の目には見えました。

そして‥



「 さつき、よう死んでくれた 」



皆は度肝を抜かれました。


若いのに心の行き届いた立派な女先生が宮小学校に来てくれた!

と、まだ正式に教師(訓導)になって100日未満にも拘(かかわ)らず信頼に足る先生だと父兄(保護者)のみならず、子を持たない村人にまで評判となっていたさつき先生。

そのお父上とは(やはり)このような立派な人物であったかと皆泣きながら涙しながら驚き、そして感心するのでありました。


政治(まさじ)さんは娘のさつき先生の手を取って「さつき、お前は年もゆかず碌(ろく)な御奉公も出来ずに死んだのは残念かも知れない。しかしよく死んでくれた。

若(も)し他所様(よそさま)のお子様を死なしてお前が1人生きておっては申し訳もないと、そればかりを心配して来たがお前が死んでくれたればこそ、こうして村のお方々にも顔も合わせれる。さつき、よう死んでくれた」

と言って涙をぬぐうのを見て、居並ぶ人々はとても堪(たま)らずにすすり泣いたという事です。


先述の当時資料本の『ある一部分には』ここの所はこのように書かれております。

急報に接した小野訓導の父は病気の為足の不自由なる身なるにもかゝわらず馬に乗って現場に駈(か)けつけ、変わり果てた娘の手を握り「さつきよく死んでくれた‥‥」といって暗涙を呑む。

並居(い)る村民はこの男らしい言葉を聞かされて更に泣かされた。

溺死児童の父は又(また)吾(わ)が子をさて措(お)いて、真先(まっさき)に小野訓導の死骸に取付き「先生済まぬ事を致しました。赦(ゆる)して下さい。」と詫(わ)びた。

この殊勝(しゅしょう)な心根(ね)にも一同泣かされた。

とあります。


川岸でこのような色々の事に泣かされた後、夕方に両名の遺体は宮小学校職員室へ運ばれました。

続々と近隣の他校教職員や村民が学校の内外に集まる中、三谷(さんこく)寺住職の読経と参列者の焼香を行ったのち午後7時、両名の自宅へと運ばれました。

その後数日して先生の仮葬儀、本葬儀と進み弔電は数知れず、会葬者は宮城県知事や師範学校長(母校)はじめ三千余名の多きに及んだとあります。

村の各戸ではこの日、弔旗を立て簾(すだれ)を下げて戸に黒枠をして「謹而(つつしんで)故訓導小野さつき女史に弔意を表す」と書いた紙を貼り、農作業などの仕事を休業して弔意を表したそうです。


宮城県知事の取り計らいにより死後破格の昇給と遺族給付金が出て、文部大臣や県知事を始め表彰の数も大変な数に上りました。

この悲話で義挙(ぎきょ)は瞬(またた)く間に宮城県のみならず近隣県、東京府、東京市に伝えられ、すぐに新聞の詳細報道を通じて全国に広く伝わってゆきます。


大正後期という、日本古来の美風が廃(すた)れゆくところと社会にも危惧(きぐ)を抱かれつつあった時代に、教育界の理想のみならずこの男にも勝る新人女先生の義挙はデモクラシーの時代に一石を投ずるものとして、また後世に語り継ぐべき壮挙として大々的に発信されたのです。


受け手側である国民は、新聞・雑誌・本・歌などを通じてこの美談にいたく感激し、全国名士有志他全国学童よりの弔慰金、弔詞弔文は数知れず多数に上りました。

また仙台周辺での追悼音楽会に追悼記念講演会、仙台や福島・京都での活動写真(映画)上映、東京本郷座での劇開催など聴衆・観客に大変な反響を起こしていきます。

そして実業之日本社の歌の懸賞募集で1等当選したものを山田耕筰作曲「小野訓導の歌」にして発表、レコード作製し発売されました。

時が隔(へだ)たった1977年には国民的歌手三波春夫作詞作曲「花咲く墓標」も発表されました。


1周忌には、宮城県教育会・刈田郡教育会・仙台の4新聞社の共同発起で大々的に弔慰金を募り、宮尋常高等小学校校門附近に殉職記念碑も建てられます。

その弔慰金は全国各所から多数集まり、約二萬円(三千万円超)を数えたそうです。


明治維新から55年ほど経って、古来からの美風を見つめ直し再び尊ぶべきと警鐘を鳴らしていた大正時代後期。


旺盛な責任感とその責任の取り方、外での立派な振る舞いにこだわりのある日本伝統の美的感覚。

この宮城県の刈田郡の人々が、それを強く世に表してくれた事に感動して泣かされ、男に勝る壮烈な立派な行いを行ったのが女の新人先生だった事に泣かされて ‥。

どんな女性なのかと後から色々と調べてみると、その頃でももう珍しい古風な大変立派な女性だったと分かり、惜しい先生を‥

と、また泣かされて ‥。

‥‥‥ (泣 。



現代的感覚でほんのり魅力的に感じられるのは、小野さつき先生と成澤与右衛門君のお墓は隣り合わせになっているというところ。

7月7日という七夕の日が命日であるのだから、1年に1度だけではなくずっと一緒にいられるように、成澤くんも先生もさびしくないようにと昔の人が良きに取り計らってくれたのでしょう。合掌。


昔には自己犠牲の精神を大切にして、この事の前年にも松本訓導の事件とか、教師が命を懸(か)けて子供を守ろうとした勇敢な有名な事例はいくつもあるようです。

(自己犠牲といっても正しい自己犠牲でなければ、昔も今もいつの世の人の心をも、動かすはずもない)

なのになぜ小野さつき先生の事件だけが、こんなにも大きく日本中を震わせたのだろうか。


四拍子揃っていたからです。


先生本人だけでなく肉親や村の人たちがみな立派だったという稀有(けう)な例だったからです。

親の言動の部分と村の真心に泣き所が十二分にあるからなのです。



参照本の一部にもこうあります。


小野訓導の偉大なる精神、立派なる人格を後世に伝へると同時に、

成澤の父親の態度、又村民が心からの介抱をした上に翌日は臨時村会を召集して村葬を以(もっ)て小野訓導の葬儀を営むことを満場一致を以て可決し、村民悉(ことごと)く喪に服して葬儀を営むと云(い)ふ其(その)立派なる態度、

並びに小野訓導の御両親の立派なる心懸(こころがけ)、

此の四拍子揃(そろ)った近世の美談、之(これ)を永久に伝へて教師の手本ともし、保護者の亀鑑(きかん)ともし、親や自治団体の尊き手本として、長く其(その)感化を新(あらた)にして往(ゆ)く為に

~中略~

日本全国の子々孫々と共に、又、国家の風紀民心の刷新を希(ねが)ふ善男善女と共に、此(この)若き尊き女性の遺(のこ)した教(おしえ)をば、末代迄(まで)も伝へるやうに、骨折(ほねお)りたいと思ふのであります。

と。



では終りに、大正11年当時の小学生の弔歌で〆たいと、思います。



世の人の

かがみ(鑑)となりて

すてし身の

あかきこころは

常盤(ときわ)に生きなむ


白石小學校 山内恒知 (作)



難解長文読解お疲れ様でした。

有難う御座居ました。



日本の紅き心は‥何だろう??

 
 


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