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たなばたさま 七夕 7月7日 唱歌/童謡/流行歌/軍歌/戦時歌謡/の動画歌詞4



たなばたさま

七夕 7月7日

唱歌/童謡/流行歌/軍歌/戦時歌謡/
の動画歌詞4 になります。

動画と歌詞は下にあります


※ 7月5日より福岡県朝倉市や大分県日田市ほか両県の近隣市町村で大洪水の被害が出て子供を含む19人が行方不明、死者6人と伝えられております。
陸上自衛隊が出て必死の捜索中ながら、また前線がこの地域で大雨を降らせて更なる被害を予測とのことで心配しております。
また、子供が流されたなる情報を聞いてから2日位経とうとしていて可哀想でしょうがないです。
お見舞い申し上げます。






曲名⇒ たなばたさま


童謡(戦時)
文部省唱歌
1941(昭和16)年

作詞:権藤はなよ
補詞:林柳波
作曲:下総皖一

国民学校第2学年
ウタノホン 下
出版:文部省
著者:文部省

1941年3月
音楽教科書
ウタノホン下に初出


 



 ◉sg218氏提供


一.♬

ささの 葉 さらさら、
(笹の葉 さらさら、)

のきばに ゆれる。
(軒端に 揺れる。)

お星さま きらきら、
(お星様 きらきら、)

きん ぎん 砂子。
(金銀 砂子。)

昭和16年たなばたさま

二.♬

五しきの たんざく
(五色の 短冊)

わたしが かいた。
(私が 書いた。)

お星さま きらきら、
(お星様 きらきら、)

空から 見てる。
(空から 見てる。)




◉R3 Music Box氏提供


天 の 川

天の川

(C)2008 Eclipse.sx CC BY-SA 3.0




九州がんばれ祈復興 !!!

   







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小野さつき先生 小野訓導 7月7日に心を打つ悲話かつ美談


FC2店へようこそ


あゝ 小野訓導(くんどう) 小野さつき先生 7月7日に心を打つ悲話・美談になります。

大正当時の人々だけでなく昭和においてもまた、さらには平成においてさえもこの悲話かつ美談を取り上げる人はまだいるのです。95年目でも、後世へ後世へと襷(たすき)を渡してずっと語りつがれているのです。

この話に出てくる人々がまさに『理想的日本人』と『教職の理想』とを表しているとずっと考えられてきたからですが、これは宮城県にあった実際の話なのです。

 

あらましは、大正11(1922)年7月7日に教え子と死を共にした小野さつきという新人女先生の壮烈で立派な死と、先生に関わる地元の人々の振る舞いがまたたく間に広く日本中の人に強い感動と涙を誘わせた話です。現代でも当時の感動が消える事はありません。

偶然にも七夕の日ですが表向き特には関係ありません。

教師として信頼に足る勇敢な行動だけでなく、後にこの話に出てくるさつき先生の父親他この地の人々の言動に、当時もそして今も『教育』と『日本人』の理想を見たと謳われている美談です。

文章がへたなのでこの感動が伝われば良いですが。

敗戦で断ち切られた、戦前までは続いていた古来の美風、大正デモクラシー期の関東大震災1年前の宮城県刈田郡蔵王町(当時は宮村)での美談です。



(弔慰金に添えられた学童の弔文)

先日刈田郡宮村の宮小學校の小野先生が受持(うけもち)の生徒を二人助け殘(のこ)る一人を助けやうとして死なれました、まことに悲しくあります。

私と弟が南洋の叔父(おじ)さんから貰(もら)ひました此(こ)の一圓(円)をどうぞ小野先生の御線香代として差上(さしあ)げて下さるやう御願ひ申し上げます。

七月十八日
仙臺(せんだい)市 立町小學校
五年生三澤淸子 三年生三澤健雄

弔文おわり



小野訓導とは小野さつき先生、訓導は教員免許状を持った正規教諭の当時の呼称です。

小野さつき先生肖像

小野さつき先生は明治34(1901)年6月14日生まれで宮城県刈田郡福岡村(白石市)出身、白石実科高等女学校(かつての県立白石女子高)より官立宮城県女子師範学校(今の国立宮城教育大学)へ進みました。成績も特に優秀で万事に気の付く模範的女子学生だったようです。

顔が特に美人でないところも良かったのでしょうか、古風な魅力的な振る舞いと性格に目が行きやすいためかお偉いさんにも同輩はもちろん後輩にも好かれ、子供にも父兄にも敬愛されたのです。

大正11(1922)年春の女子師範卒業後すぐに、明治6(1873)年創立の同県刈田郡 宮(みや)尋常高等小学校(今の蔵王町立宮小学校)へ赴任し、尋常科4年(今と同等の小学4年)を担任する新人女先生となったのです。


 


ではここから本文へと入って参ります。宜しくどうぞ。

やはりもう95年も前の話ですから、当時の本『殉職訓導 小野さつき女史 :宮城県教育会・刈田郡教育会著(大正11年 実業之日本社刊)』 『小野さつき先生 殉職美談 :野崎迂文著(大正11年 東京神田高文館書店刊)』 他なども参考にしながら書きました。


これは春に赴任してから僅(わず)か100日未満の1学期の事でした。

大正11(1922)年7月7日、宮城県刈田郡宮村(現蔵王町)の萬歳(ばんざい)川(白石川)の萬歳河原。

当日は一昨日までの梅雨の長雨も上がりよく晴れて、30度ほどとかなり暑かったようです。

宮尋常高等小学校尋常科4年担任小野さつき訓導(21歳)は、この七夕の日の5時間目に写生会を行おうと欠席児童を除く4年生児童 56名 (本来は66名のマンモス学級)と午後0時45分に校門を出て、さつき先生1人のみで附近の萬歳河原へ引率したのです。

現場の川幅はおおよそ55m、河原の多い場所で浅瀬が続いていて向う岸6m手前辺りまで近づくと急に深く(約2.4m)なって渦が巻き、流れが速くなる。一昨日までの長雨で多少増水もしていました。

白石川を当時の現地では萬歳川と呼び、対岸に鉄道線路が沿っていてここをかつて日露戦争中に毎日のように戦地に赴く兵隊さんを乗せた汽車が通りました。

以来、幾多の戦役(せんえき)に出征する兵隊さんを乗せた列車を宮村の村民がこの萬歳河原に並び立って、日の丸の小旗を手に萬歳萬歳とその首途(かどで)を見送った所だからだといいます。


前日の7月6日には、当時若き皇太子だった後の昭和天皇のお召列車が北海道視察の為にここを通過されました。

同じように川岸に児童を引率して小野さつき先生もここで萬歳をして、裕仁親王の通過をお迎えしています。これは前日の話です。

雨が止んで2日間続けて校外へそれも同じ川べりに出たのだから、当時の東北では水泳の季節には少し早いようですが児童のテンションはかなり高かったことでしょう。


先述紹介の当時発行本によれば、小野さつき先生の父は名を政治(まさじ)といい、この頃は農業をしているが武士道精神を持ち合わせた大変に厳格で村人から頼りにされる立派な人物でした。

さつき先生も厳しく育てられ若いながら女ながらに質素で肝(きも)も太く、いつしか小学校教諭になる事を熱望し始めたようです。

教育について熱心で一家言あり、その責任の重さをよく理解していた厳父。師範学校に進みたい、という娘のまだ青い願望には頑として反対していました。

それでもさつき先生は何度も懇願してついにその許しを得て師範学校に進んだ為、職務に強い責任感と旺盛な意欲を持って日夜励んでいたそうであります。

今ならば21歳の新米教師などと青二才扱いされるところを、学生時代より全く立派な日本全国教職員の眞(しん)に手本とすべき理想的な先生だったようです。

(現代にこそ、その精神を最も尊びたい時空を超えた立派な先生である、ということです)


しかし男勝りの胆力も有れば、一方慎重派でもある。

一例に、学校から萬歳河原へと出る途中に桑畑があって、それに沿って河原への近道である小道が通っているのですがそこには途中の溝(水たまり?)の上に少し危なげな一本橋がかかっていたのです。

よく知った児童たちが近道だからその小道を通りたいといっても、何か事故があってはいけないと先生は許可しなかったそうです。

先生曰く、何事も少しの時間を惜しむ為に危ない所を通ったり危ない事をしてはなりません、と。

親が子供を任せたい先生、という父兄と村の高い評判。

女先生で新人でありながら56名(当日は欠席10名、正規66名の4年児童を担任)もの活発な児童の大事な命を預かっているのであるから、先生は近道の誘いを戒め確実な桑畑の中を通って河原へ出ました。


川を前に、活発な児童たちが籠から放たれた小鳥のように喜び勇むのは自然な事です。

女先生の周りに群がり口々に「先生、川に入って遊びたいです」「先生、水遊びをさせて下さい」「いいでしょう??」と写生もそこそこに袖をつかみせがみました。

先生はきれいな風景を写生に来たのだから遊びに来たのではありませんよ、いけません。とその願いを斥(しりぞ)けていたのです。

しかし当日は約30度でとても暑く、あまりにも子等がしつこく熱心にせがむものだから ‥。

優しさも持ち合わせた先生は、それ以上はいけません‥とも言い兼ねてついに、条件つきでそれを許可してあげました。


「それでは、皆さんがちゃんと課題の写生を終えたなら少しの間なら、水の中へ入ってもよろしうございます」

「ただし泳ぐ事は絶対にいけません、浅い所で遊ぶんですよ、判りましたか」 と念を押して。


写生の出来に励みをつける為と、腕白(わんぱく)な子供たちに満足を与えてあげる為に『ちゃんと課題を終えたら』と条件をつけて許可すると、子供たちは大いに喜んで頑張って写生に取組みました。

すると成果は大いに上がって皆が課題を終えられたので、「みなさんよく頑張って終えられたから、お約束通り川へ入ってもよろしうございます」と先生は子等に告げました。


ただ、ここでも信頼に足るさつき先生は更に念を押し、「裸になって泳いではいけません、着物の裾(すそ)をまくって浅い所で遊ぶだけですよ、深い所へ行ってはいけませんよ」 と言い渡しました。

子供たちはそれは楽しそうで水の中ではしゃぎ狂って着物を濡らしたり、帯を流れに流して遊ぶ子等、浅瀬で転んで着物がびしょびしょに濡れてしまう子等の取り扱いに先生はとても繁忙でした。


そんな時に一部の児童から目が離れてしまったのです。


成澤与右衛門という子がいました。病弱で欠席が多く出席日数が足りない為2年続けて進級できずに学級に1人だけの13歳(数えでなく満だと12歳)という年長で、先生はこの子を何とか一人前に成長させてあげたいとかなり気にかけていたようです。
(後から邪推すると、一緒に死んだ遠因の一つになるのでしょうか‥)

先生が他の子に手を取られている隙(すき)に「あの対岸に(約50m先)小舟が繋(つな)いであるだろ、あすこまで(浅瀬を過ぎたら)泳いで行ってあの舟に乗って遊ぼうぜ」と4、5人に声をかけました。

それに応じた志村政雄君と大場徳治君の3人で先生の目を盗んで着物を脱いで裸になり、向う岸の小舟へと勝手に泳ぎ出しました。

浅瀬を越えると向う岸は近いが水深が急に深く(約2.4m)なっていて、流れが速く渦が巻く所でした。すぐに深みにはまったようになり3人とも溺れてしまいました。


小野さつき先生は、泳ぎもとても得意な先生でした。水練もやるし、馬術もやる。

厳格な父の下、文武両道を実践していました。

子等の急を聞き、「あ、大変だっ !!」と着物の袴(はかま)を脱ぐ事もせずにそのまま川に飛び込んだといいます。


午後1時や2時頃というと、当時当地では昼の長い昼寝休憩や食事の時間で川の附近の釣り人もその辺りの農地にも全く人影無く、全くもってこの急を若いさつき先生唯(ただ)一人が何とかしなければ間に合わなかったのです。

先生は着衣のまま飛び込んでまず志村君を小脇に抱えて河原へ上げ、すぐにまた取って返し大場君を抱えてまた浅瀬へ河原へと押し上げ、三度(みたび)深い淵へと身を躍らせて成澤君も助けんと向かって行ったといいます。


大場君を助けた後、袴が下がった為これを脱ごうとしたが水を含んだ紐(ひも)が固まって解(ほど)けず、止(や)む無く脱がずにそのまま又飛び込もうとして児童に危険だから止めてと袖を掴(つか)まれ制止されたが、しかしそれも振り切ってまた飛込んだそうです。

また川中に三度身を躍らせて成澤君に近づこうとする途中で袴がずり下がり過ぎたらしくそれを川中で締め直そうとして焦(あせ)ったらしかったとあります。

先生は2人も助けて体力の限界に近かったと思われ、袴も緩(ゆる)んで蓮の葉のようにぱーっと広がったり顔や手足に絡(から)まったりして泳いで前に進むのも困難な状態だったようです。


先生は自分が限界を超えているからともうあきらめて、最後の1人はどうしようもできなかったから泣く泣く赦(ゆる)してもらおうなどとそういうやわな精神の人では全くなかったようでありました。


身命を賭して教え子を助けん、それが適(かな)わぬならば

一蓮托生だ


気にかかる成澤君だから余計に‥だったのでしょうか。

武士道の精神を体現したような父の厳しい教えに育(はぐく)まれた、さつき先生の気高い強い精神が最後の気力を振り絞(しぼ)らせて奮い立たせていたと考えられ、壮烈鬼神をも哭(な)かしむるか!!

成澤君はずっともがいています。深みの引き込む強い流れにもまれて他の2人が救助されている間もあがいていました。

新人女先生は最後の気力と精神力をもって、たった1人だけで3人目の成沢君も助けようとしていましたが、袴が蓮の葉のようにひろがっては足や腕にまとわりついて泳げる状態ではありませんでした。

それでもなお溺れながらもがいている成澤君に狙いをつけ少しずつ近づきます。

男でも出来ないような心掛けを持って、流れの速い深みでもう限界のつらい苦しい自分に打ち克(か)ってそれでもなお教え子を救おうとしているのです。


あゝ 壯烈(そうれつ)
なんといふ雄々(おお)しさよ


95年前の大人はそう表現しています。男に勝る英雄的行為をたった1人の21歳の新人女先生が行っているのだから、軍隊もあったし武士道的価値観も少し残っていた当時でさえそれは無茶だと、常人の行いを遥かに超えているのだから、もう軍神に使われるような言葉で表現する他ないからでしょう。


先生の必死の努力はあと一間といいますから1.8m程まで近づき、ついに成澤君に触れようとした時に見捨てられていなかった事に最後に安心したのか憐(あわ)れ、成澤君は水面下に没しました。


成澤君に触れた小野さつき先生


さつき先生の顔には一層の焦る色が見えて成澤君を捜(さが)していましたが、水中に沈んだ成澤君が必死に先生の足や着物にすがったのではないかと思われ先生は髪が乱れて顔に貼りついて浮き沈みしていました。

が、最後に首を上げて河原や浅瀬の児童たちへ「早く、この事を学校へ知らせて下さいっ !!!」と叫んだと思うや水中に沈み、先生はもう浮き上がってこず、ついに帰らぬ人となってしまいました。

沈みゆく先生は児童の話では、束髪(そくはつ)が解けて黒い藻が広がって沈んでいくように見えたといいます。


60人余りの児童たちは「先生ーっ !!!」と一斉に泣きだしましたが、何人かは先生の最後の叫びを思い出し学校や近郷へ走って急変を知らせに行きました。

学校からすぐに手配し半鐘を鳴らしつつ事態を村人や消防団、警察署更に医者や各実家へ急ぎ知らせました。

そして各所へ話が伝わり、続々と大人が万歳川に集まりすぐに先生と成澤君の捜索が行われかなり潜水したりして探した後、川底から両名の遺体を発見しました。

両岸へ上げて医者が横について村人が何時間も人工呼吸を行いましたがだめでした。

続々と集まった村人たちも日頃評判で村人に好かれた先生を必死で蘇生しようと手を施しました。

ついに還(かえ)らぬその壮烈な最期(さいご)に、郡長・村長はじめ居並ぶ人々は感極まれり。

村人は声を上げて泣き、口々に嘆き悲しんで郡長・村長は村人の献身に頬を濡らせり。

この村人の純粋に泣かされたり。


成澤君の父は藤治(とうじ)という人で農家でしたが学校から息子と先生の急変を聞くと、急いで万歳川にかけつけました。

まず川底から息子の遺体を探し出すのに協力してくれた人々に丁重に礼を述べました。

それから息子の遺体をほんの少しの間見て落涙をしました、がそれに一言も発する事なく駆け寄りもせずに、すぐに小野さつき先生の遺体の横たわっている所へ急ぎ赴(おもむ)いたといいます。


(先生に)群がって嘆き悲しむ村人を掻(か)き分けて、さつき先生の傍らに両手をぺったりとつき、

「小野先生!! わしの子が悪戯(わるさ)をしたばかりに先生をこんなお姿にしてしまって何とも申し訳が有りません!!

小野先生!! 堪忍して下さい!!」

と両頬に涙を流しながら何度も頭を地面につけては、眞底(しんそこ)から先生の死を詫(わ)びるのでありました。


更に藤治さんは村の人々の方に向き直ります。

「村長さんをはじめ村のお方々、わしの子の為に村で好かれていたこんな立派な小野先生をこんなお姿にしてしまって申し訳が有りません !! 宥(ゆる)して下さい !!」

と、先生に対しても村人に対しても我が子の悪戯(わるさ)が、皆が慕う小野先生を死なせてしまった

と、頭を地につけて、親として一番にやらねばならない大切な事を間違えず、先生と皆に何度も眞底から詫びるのでありました。


居合わせた人々は藤治さんが息子の与右衛門君の死の事については皆の前で一言も口にせずに、ひたすらに先生の死のみを詫びたり口にしたりするその(正しき)態度にいたく感心しました。

そして村人の1人は、「先生が死んでしまったのは大変に残念だけれども、お前さんの息子も死んでしまったのだから(村人に)そう謝らずともよいから息子の事をやっておやりなさい」と藤治さんに答えてやりました。


一方、先生の父小野政治(まさじ)氏は、この頃病気を患(わずら)い足を不自由にしていました。

自邸で先生と教え子児童の急変を聞いた後、人々の止めるのもきかず馬に乗って萬歳川の現場に駆けつけます。

「皆さま、今日は娘の不束(ふつつか)で飛んだ事を仕出かしまして何とも申し訳ありませぬ」と村長、署長他村民など居並び嗚咽(おえつ)している人々に詫びました。

余計な物言わぬ古武士のような風格を帯びた中々にしっかりしたお父上だと皆の目には見えました。

そして‥



「 さつき、よう死んでくれた 」



皆は度肝を抜かれました。


若いのに心の行き届いた立派な女先生が宮小学校に来てくれた!

と、まだ正式に教師(訓導)になって100日未満にも拘(かかわ)らず信頼に足る先生だと父兄(保護者)のみならず、子を持たない村人にまで評判となっていたさつき先生。

そのお父上とは(やはり)このような立派な人物であったかと皆泣きながら涙しながら驚き、そして感心するのでありました。


政治(まさじ)さんは娘のさつき先生の手を取って「さつき、お前は年もゆかず碌(ろく)な御奉公も出来ずに死んだのは残念かも知れない。しかしよく死んでくれた。

若(も)し他所様(よそさま)のお子様を死なしてお前が1人生きておっては申し訳もないと、そればかりを心配して来たがお前が死んでくれたればこそ、こうして村のお方々にも顔も合わせれる。さつき、よう死んでくれた」

と言って涙をぬぐうのを見て、居並ぶ人々はとても堪(たま)らずにすすり泣いたという事です。


先述の当時資料本の『ある一部分には』ここの所はこのように書かれております。

急報に接した小野訓導の父は病気の為足の不自由なる身なるにもかゝわらず馬に乗って現場に駈(か)けつけ、変わり果てた娘の手を握り「さつきよく死んでくれた‥‥」といって暗涙を呑む。

並居(い)る村民はこの男らしい言葉を聞かされて更に泣かされた。

溺死児童の父は又(また)吾(わ)が子をさて措(お)いて、真先(まっさき)に小野訓導の死骸に取付き「先生済まぬ事を致しました。赦(ゆる)して下さい。」と詫(わ)びた。

この殊勝(しゅしょう)な心根(ね)にも一同泣かされた。

とあります。


川岸でこのような色々の事に泣かされた後、夕方に両名の遺体は宮小学校職員室へ運ばれました。

続々と近隣の他校教職員や村民が学校の内外に集まる中、三谷(さんこく)寺住職の読経と参列者の焼香を行ったのち午後7時、両名の自宅へと運ばれました。

その後数日して先生の仮葬儀、本葬儀と進み弔電は数知れず、会葬者は宮城県知事や師範学校長(母校)はじめ三千余名の多きに及んだとあります。

村の各戸ではこの日、弔旗を立て簾(すだれ)を下げて戸に黒枠をして「謹而(つつしんで)故訓導小野さつき女史に弔意を表す」と書いた紙を貼り、農作業などの仕事を休業して弔意を表したそうです。


宮城県知事の取り計らいにより死後破格の昇給と遺族給付金が出て、文部大臣や県知事を始め表彰の数も大変な数に上りました。

この悲話で義挙(ぎきょ)は瞬(またた)く間に宮城県のみならず近隣県、東京府、東京市に伝えられ、すぐに新聞の詳細報道を通じて全国に広く伝わってゆきます。


大正後期という、日本古来の美風が廃(すた)れゆくところと社会にも危惧(きぐ)を抱かれつつあった時代に、教育界の理想のみならずこの男にも勝る新人女先生の義挙はデモクラシーの時代に一石を投ずるものとして、また後世に語り継ぐべき壮挙として大々的に発信されたのです。


受け手側である国民は、新聞・雑誌・本・歌などを通じてこの美談にいたく感激し、全国名士有志他全国学童よりの弔慰金、弔詞弔文は数知れず多数に上りました。

また仙台周辺での追悼音楽会に追悼記念講演会、仙台や福島・京都での活動写真(映画)上映、東京本郷座での劇開催など聴衆・観客に大変な反響を起こしていきます。

そして実業之日本社の歌の懸賞募集で1等当選したものを山田耕筰作曲「小野訓導の歌」にして発表、レコード作製し発売されました。

時が隔(へだ)たった1977年には国民的歌手三波春夫作詞作曲「花咲く墓標」も発表されました。


1周忌には、宮城県教育会・刈田郡教育会・仙台の4新聞社の共同発起で大々的に弔慰金を募り、宮尋常高等小学校校門附近に殉職記念碑も建てられます。

その弔慰金は全国各所から多数集まり、約二萬円(三千万円超)を数えたそうです。


明治維新から55年ほど経って、古来からの美風を見つめ直し再び尊ぶべきと警鐘を鳴らしていた大正時代後期。


旺盛な責任感とその責任の取り方、外での立派な振る舞いにこだわりのある日本伝統の美的感覚。

この宮城県の刈田郡の人々が、それを強く世に表してくれた事に感動して泣かされ、男に勝る壮烈な立派な行いを行ったのが女の新人先生だった事に泣かされて ‥。

どんな女性なのかと後から色々と調べてみると、その頃でももう珍しい古風な大変立派な女性だったと分かり、惜しい先生を‥

と、また泣かされて ‥。

‥‥‥ (泣 。



現代的感覚でほんのり魅力的に感じられるのは、小野さつき先生と成澤与右衛門君のお墓は隣り合わせになっているというところ。

7月7日という七夕の日が命日であるのだから、1年に1度だけではなくずっと一緒にいられるように、成澤くんも先生もさびしくないようにと昔の人が良きに取り計らってくれたのでしょう。合掌。


昔には自己犠牲の精神を大切にして、この事の前年にも松本訓導の事件とか、教師が命を懸(か)けて子供を守ろうとした勇敢な有名な事例はいくつもあるようです。

(自己犠牲といっても正しい自己犠牲でなければ、昔も今もいつの世の人の心をも、動かすはずもない)

なのになぜ小野さつき先生の事件だけが、こんなにも大きく日本中を震わせたのだろうか。


四拍子揃っていたからです。


先生本人だけでなく肉親や村の人たちがみな立派だったという稀有(けう)な例だったからです。

親の言動の部分と村の真心に泣き所が十二分にあるからなのです。



参照本の一部にもこうあります。


小野訓導の偉大なる精神、立派なる人格を後世に伝へると同時に、

成澤の父親の態度、又村民が心からの介抱をした上に翌日は臨時村会を召集して村葬を以(もっ)て小野訓導の葬儀を営むことを満場一致を以て可決し、村民悉(ことごと)く喪に服して葬儀を営むと云(い)ふ其(その)立派なる態度、

並びに小野訓導の御両親の立派なる心懸(こころがけ)、

此の四拍子揃(そろ)った近世の美談、之(これ)を永久に伝へて教師の手本ともし、保護者の亀鑑(きかん)ともし、親や自治団体の尊き手本として、長く其(その)感化を新(あらた)にして往(ゆ)く為に

~中略~

日本全国の子々孫々と共に、又、国家の風紀民心の刷新を希(ねが)ふ善男善女と共に、此(この)若き尊き女性の遺(のこ)した教(おしえ)をば、末代迄(まで)も伝へるやうに、骨折(ほねお)りたいと思ふのであります。

と。



では終りに、大正11年当時の小学生の弔歌で〆たいと、思います。



世の人の

かがみ(鑑)となりて

すてし身の

あかきこころは

常盤(ときわ)に生きなむ


白石小學校 山内恒知 (作)



難解長文読解お疲れ様でした。

有難う御座居ました。



日本の紅き心は‥何だろう??

 
 


北朝鮮とアメリカと日本、戦争になるのかは誰にも判らないけれど‥

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緑は北朝鮮と国交を有する 灰色が有さない 赤は国交断絶中 との事

(C)©2012 Japinderum CC BY-SA 3.0


FC2店へようこそ


北朝鮮とアメリカと日本‥戦争になるのかならぬのかは、4月上旬に騒ぎ始めて以来丁度2ヶ月にもなりますが、膠着(こうちゃく)して未だ誰にも分かりません

この問題は海外でも大きく報じられていますね、近年珍しく?太平洋で原子力空母を派遣している事やミサイル発射実験の応酬と軍事演習の応酬で緊張し、報じがいがありますから当然でしょう

こんにちはぁ~C次郎いいますぅ~
ここのFCぃ2ぃ店のぉ管理ぃやってるぅ店長ぉ代理にぃ~、C次郎君のエセ関西弁を止めてもらって標準語(東京弁)でこっちにも記事を書いてくれないかな?

てぇ言われましてぇ~誰がぁエセ関西弁じゃゴルァ!!ってなったんですけどもぉ~
では‥只今から時に臨んでC次郎改め臨時郎、ではなく臨次郎(期間限定)と致します キリッ

ウルグアイから帰国してより、はてな店にもここにし君にも記事を書きましたので臨次郎はFC2店にも協力貢献?をば致して参ります

え~、上記兄弟ブログを確認しましても4月上旬より主にミサイルからの避難と政府の国民保護について何度も記事を載せていますね、丁度2ヶ月前ですか‥

そして1ヶ月前には国内ではGW明けで、早くもミサイル空襲への関心がかなり薄くなっていますね
こんな重大問題であっても事態が動かなければ、やはり『平和国民の関心は1ヶ月で限界説』に陥っていますね

そしてそのGW明けから今日までの1ヶ月間には、北朝鮮が4発も5発もミサイルを発射していますね、そのいずれも成功?させていました、その頃にロフテッド軌道なんて用語も初めて聞きました

感想は4月と打って変わって『北朝鮮‥やるなあ‥‥!』だったと思います

無論、実験や訓練と実戦とは違う訳で本気の戦なら今保持している兵器などはすぐに消費し、すぐに生産補充や購入を拡大しなければ戦いの継続も困難な訳であるし、アメリカのように兵器生産補充を無尽蔵に出来ないなら限りある兵器の着弾位置の正確さ等は戦果に戦局に大きく影響してくると思います

さて、もう2ヶ月‥一体起こるのか起こらないのかは具体的な情勢や事象や地名を出して解説していても、どの記事の結論を見ようともそれは分からない事です
そこは事前報道できない国家機密ですから

アメリカにとってすら北朝鮮という国は攻めにくい国だという事は確かでしょう、その背後にロシアと中国という2大国が備えていますから

例え海軍の空母からの地点限定攻撃であっても‥ロシアと中国を大きく刺激、臨戦態勢にする事になるから

戦前は日本もここ(満洲と朝鮮)に分け入っていた訳で、先人のこの緊張感を一部を除く今の日本人大多数が鈍くしか感じないならば或る意味とてもイタいと言えますね

ふぅ(*_ _)ここにし君のL男さんの言い回しを真似てみてるけど、大変やな‥コレ‥

 
 

さてさて、北朝鮮という国はまさに必要悪?として70年近く存在しているというのが日本での主な認識なのですが、ここでクリクリっと冒頭に戻って世界地図を見てもらいます

緑が国として承認し北朝鮮と国交のある国々です、アレっ?ほとんど緑やん!
薄灰色が承認せず国交のない国々、かなり少数‥あれ? 赤は何があったか(アメリカに倣ってなのか)北朝鮮と国交断絶中の国々です

南北米大陸を除くと、むしろなんか日台韓のほうが異端児みたいになっとるやん!‥
おいおい英独伊加(カナダ)も国交あったんかいっ!?という驚きがあります

国内で『自己責任!自己責任!』とアホな言葉を発している内にか、いやそれよりももっと前の『抗菌無臭奨励時代』になのか、着々と国交を開いておったんですなあ‥
知らぬは中道日本人ばかりなりってか‥

え、そろそろ席に戻ってもらって、と‥
北朝鮮は緩衝国(緩衝材のような国)として、米露中に貢献していたからこそ約70年も保っているんですね

ここに介入すると‥ゆくゆくは緩衝国でなくここが戦場になってクッション材のなくなった米露中は激しくぶつかると‥
アメリカとしてもそれは長期戦になるに決まっているし、自由奔放な国民精神を戦時体制へ持っていかなければならないから大変な労力が要るし‥


核関連施設への限定攻撃にしても、ミサイルでの報復がすぐに日本と韓国にあるだろう事と、それへの報復で更に介入すると‥露中も介入してくるだろうとの予想であらかじめある程度の長期戦にも備えていなければならないから‥


あの騒ぎから2ヶ月も経って何も起こらないので、あるいは真珠湾のように先に攻撃させる為におとりとして空母を持ってきて遊弋(ゆうよく)させているのかという暴論も出てきそうですが‥



すっかり攻めにくい国になっていますね、核もミサイルも持っていても
声明で警告しても空母で演習して恫喝しても、経済制裁でも‥
手出しできんねコレは‥簡単には

これからもミサイルの発射実験が何回も続くでしょうなあ‥
日本が備えを完了してミサイル全弾撃ち落とせるような自信を持つまでは‥

空母で半島近海に来ていても上記から米側からの先制攻撃は結局無いかなあ‥
北朝鮮から攻撃することはまずないと見ていいし‥

長引きすぎてずっとこのままかなあ‥ロシアが米朝を仲介する日までは‥


もうひとつ暴論ですが‥日本も本気で備えるなら正直言って裏切らない兄弟国家を造れるなら作っといた方がいいんですが‥
危険地帯ですからね‥満洲なんかは日本も兄弟国家かつ緩衝国を造ろうとしたんですね、独墺(オーストリア)とか英米のように


アジアの問題でありながら、当事者になる事を避けねば火の粉が、暴力が降り掛かると戦争に敗けてより今日まで専ら会計係や調達係、書記係を務めて自分をだましだまし、金と技術で折り合いを付けて今日まで来た事こそが、

大国揃いで勝ち目が薄いとしても、東アジアの問題なのにアメリカの後ろに控えて実質傍観してきたことが、今日のこの状態(ミサイル問題や尖閣などの領海侵犯問題)を生んだともいえて、

色々の事情があったにせよ、まさに『日本の自己責任』といえるだろう‥
社会が個人に自己責任を問うているアホな間に、日本国家がアジアでの立場で自己責任を問われたというような笑えない話か‥


どの記事でも結論が『~だろう』か『攻撃日の単なる予想』で結局攻撃するのかしないのかの答えが出ていない様に、無論この記事でも出せませんよね

攻撃は出来ずずっとこのままかなあ‥ロシアか国連が米朝を仲介するその日まで‥


ここらで閉店で~す
臨次郎でした~

 
 

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唱歌/童謡/流行歌/軍歌/戦時歌謡/動画歌詞3 霧島昇・松原操両先生特輯1 めをと(夫婦)ならば、花も嵐も踏み越えて!


 

 

 



霧島昇・松原操夫妻650

唱歌/童謡/流行歌/軍歌/戦時歌謡/等の動画や歌詞を贈ります3 です。今回は霧島昇・松原操夫妻特輯!のその1!『君よ共に歌はん(昭和16年)』『大空に祈る(昭和18年)』『誰か故郷を想はざる(昭和15年)』の、聴けば判(わか)る!3本立てにてお贈り申します。
霧島・松原両先生特輯はこの後も続けて行きたく思います。

往時を懐かしみたい方、そう云う曲を聴きたい方、介護施設等で利用したい方、そう云う方々の御供にと思って居ります。無論初めて聴く方も世代も時代も関係なく、聞いてみて頂きたいです。


提供各企業並びに各関係者殿へ
記事掲載後に不都合のある方は、その旨連絡願います。
協同管理者と激論の末におそらくは善処致す所存候。
各関係者殿はコメント欄へ。


本文は広告下に続きます



 



 




曲名⇒ 君よ共に歌はん

流行歌歌謡曲(戦時)
1941(昭和16)年10月

作詞:サトウハチロー
作曲:古關裕而
編曲:奥山貞吉
歌手:霧島昇・松原操
コロムビアオーケストラ
松竹大船映画
『君よ共に歌はん』主題歌

めをと(夫婦)なら、花も嵐も踏み越えて!
霧島昇と松原操両先生の曲特輯の栄えある第1曲目は、松竹大船映画『君よ共に歌はん(1941年8月封切)』の主題歌で同名タイトルの『君よ共に歌はん』で行きます!

これも古関メロディマジックによって歌いたくなる節回しに仕上がって居ります。この曲が日米開戦直前という時に、霧島松原両先生夫妻歌唱により花も嵐も踏み越えて、更にサトウハチロー先生の詞による、暗い谷間も茨の道も君と踏み分け踏み越えてなどの歌詞全般により、『明日の行方は知らねども』な未来を暗示している。

《支那事変、聖戦完遂、渡洋爆撃、重慶政府と南京国民政府、日獨伊三国同盟、翼賛新体制、贅沢(ぜいたく)は敵だ、大東亞共栄圏、東京オリンピック返上、テレビ受像機、紀元二千六百年事業、反英反米親独、ABCD包囲陣、ガソリンの一滴は血の一滴、獨ソ戦、関特演、北部南部佛印進駐、スパイ防諜、日米交渉‥》

などなどなど短期間に期待と不満や憤(いきどお)り、不安が様々交錯(こうさく)した時局に(サトウハチローの気持ちを)歌詞に乗せてしかし曲は明るく、印象深い。

めをと(夫婦)とは花も嵐も踏み越えて、暗い谷間も茨の道も『君と踏み分け踏み越えて』そうして光り輝く彼方の丘にたどり着くことぞ、と。
で宜しいですよね、先生?

さあ時空を超えて! 君よ歌はん!
共に歌はん!先生方と共に!
君も歌はん!


日本コロムビア蓄音器株式會社
1941年盤
川崎市

◉akiraplastic5氏提供


一.♬
聞(き)けよ小風(こかぜ)に
囁(ささや)く木(こ)の葉

語(かた)る言葉の
歡(よろこ)びに

雨も涙(なみだ)も
今朝方(けさがた)晴(は)れた

君よ歌はん 共に歌はん


二.♬
森の駒鳥(こまどり)
胸震(ふる)はせて

空に唄(うと)うて
呼び掛(か)ける

吾(われ)も心の
小窓(こまど)を開き

君よ歌はん 共に歌はん


三.♬
思ひ遥(はる)かに
浮雲(うきぐも)眺(なが)め

偲(しの)ぶ故郷(ふるさと)
遠い夢

母の優(やさ)しき
面影(おもかげ)懐(いだ)き

君よ歌はん 共に歌はん


四.♬
暗(くら)い谷間(たにま)も
茨(いばら)の道も

君と踏(ふ)み分(わ)け
踏(ふ)み越(こ)えて

光(ひかり)輝(かがや)く
彼方(かなた)の丘(おか)で

君よ歌はん 共に歌はん





曲名⇒ 大空に祈る

軍歌戰時歌謡曲
1943(昭和18)年4~6月

作詞:野村俊夫
作曲:万城目正
編曲:仁木他喜雄
歌手:松原操・三原純子・
菊池章子

日蓄管弦樂團
陸軍航空本部撰定航空歌
松竹大船映画
『愛機南へ飛ぶ』挿入歌

息子(陸の荒鷲)の無事の活躍をひたすらに祈る母の心情とその覚悟とは如何ならんや。
内地に居れども銃後も戦っているのであるからして、緊張感を持って発言や態度にも油断してはならないのであった。

また多くの母も同じく息子を戦場に送り出している以上、戦死をなされた家庭も多くある以上、他者(特に戦死者遺族)への特別の配慮はもはやマナーというかエチケットというか、将(まさ)にそういうものであった(ようだ)。

そして此(こ)の決戦下、国に報いる言動として軍人(息子)には忠義と武勇武功が最も求められていたのであるから、(その親として)歌詞の結びが(本心は顔には出しても、言葉にはせず)建前全開の『晴れの手柄を勲(いさをし)を』となるのは決戦時(非常時)として正解なのであろう。

それは美徳だったのであり、最近でも、昭和天皇崩御の時や大震災の時などにそれと似た現象が現代でも顕著に現れた様にそう(美徳)なのであろう。

毎度危険な敵地偵察任務を続ける陸軍偵察機乗員である息子の無事活躍を祈る母心と、話が少し逸(そ)れて何故(なぜ)か先程紹介した君よ共に歌はんの三番、四番が偶然にも息子から母への返歌っぽく少しなっているので、
偶然の結び付きのこの2曲を重ねて見てもらうと尚良い感じなのではないかと只今(ただいま)感ぜられた次第であります。

しかし‥作詞野村俊夫も福島、霧島昇も古関裕而も、伊藤久男もみんな福島(県)出身。
(福島県勢の)才能も爆発(勃興)しているし、この非常時日本の頃の(一大派閥としての?)福島閥(?)の勢いは凄いですね。


日蓄工業株式會社
(日本コロムビア蓄音器)
1943年盤
ニッチクレコードB面
(A面は索敵行)
川崎市

◉kamikaze1962雷雲氏提供


一.♬
風吹きゃ嵐に
ならぬやう

雨降りゃさぞや
ご苦労と

飛びゆく鳥の
影にさへ

我が子を偲(しの)ぶ
この日頃(ひごろ)

祈る心は 唯(ただ)一つ

晴(は)れの手柄を
勲(功)(いさをし)を


二.♬
南の空見りゃ
目に浮かぶ

日の丸赤い
その翼

湧(わ)き立つ雲を
朱(あけ)に染め

戰(たたか)ひ拔(ぬ)くか
今日も亦(また)

祈る心は 唯(ただ)一つ

晴れの手柄を
勲(功)(いさをし)を


三.♬
天晴(あっぱれ)
武者(むしゃ)振(ぶ)り
見せますと

涙に潤(うる)む
文字の跡(あと)

その一言(ひとこと)の
嬉(うれ)しさに

又(また)込上(こみあ)げる
熱いもの

祈る心は 唯(ただ)一つ

晴れの手柄を
勲(功)(いさをし)を


四.♬
今頃(いまごろ)何処(いづこ)の
空(そら)じゃやら

仰(あふ)げば光る
夜半(よわ)の星

後(おく)れは取らぬ
この母も

御國(みくに)の爲(ため)に
散る覺悟(かくご)

祈る心は 唯(ただ)一つ

晴れの手柄を
勲(功)(いさをし)を





曲名⇒ 誰か故郷を想はざる

流行歌歌謡曲(戦時)
1940(昭和15)年1月

作詞:西條八十
作曲:古賀政男
歌手:霧島昇

説明不要也!
誰(たれ)か故郷を想はざらんや!
前線に銃後に、人の心を捉(とら)えて大ヒットす!
こ、これは、、、。中々、、どうして、、良いのでは、、、と(以前から感じていた)動画を主に載せさせて頂きます。


日本コロムビア蓄音器株式會社
1940年盤
川崎市

◉東海林太郎氏提供


◉0jac7氏提供


◉笠原修平氏提供


◉Tomo Yama氏提供(アコーデオン)


◉solakaze氏提供(ピアノ)


◉akanetooyazi氏提供
(電子キーボード)


一.♬
花摘(つ)む野邊(のべ)に
日は落ちて

皆(みんな)で肩を
組みながら

唄(うた)を歌った
帰り道

幼馴染(をさななじみ)の
あの友 この友

あゝ 
誰(たれ)か故郷(こきゃう)を
想(おも)はざる


二.♬
一人(ひとり)の姉が
嫁(とつ)ぐ夜(よ)に

小川(をがわ)の岸で
淋(さみ)しさに

泣いた涙の
懐(なつ)かしさ

幼馴染(をさななじみ)の
あの山 この川

あゝ
誰(たれ)か故郷を
想はざる


三.♬
都(みやこ)に雨の
降(ふ)る夜(よる)は

涙に胸も
湿(しめ)りがち

遠く呼ぶのは
誰(たれ)の聲(こゑ)

幼馴染の
あの夢 この夢

あゝ
誰(たれ)か故郷を
想はざる




有難う御座居ました。霧島・松原両先生夫妻特輯その2の時に
またよろしく(*'▽')



       


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唱歌/童謡/流行歌/軍歌/戦時歌謡/等から必聴動画や歌詞を贈ります。2


 
 
 


日蓄すだれレーベル参考1

唱歌/童謡/流行歌/軍歌/戦時歌謡/等の動画や歌詞を贈ります2 を前回に続きお贈り致します。

今回は『オルゴール演奏 鐘の鳴る丘(とんがり帽子)』『串本節(昭和5年)と(昭和24年)物を2枚』『富士に誓う(昭和18年)』の、聴けば判(わか)る!豪華?3本立てにてお贈り申します。

往時を懐かしみたい方、そう云う曲を聴きたい方、介護施設等で利用したい方、そう云う方々の御供にと思って居ります。無論初めて聴く方も世代も時代も関係なく、聞いてみて頂きたいです。


提供各企業並びに各関係者殿へ
記事掲載後に不都合のある方は、その旨連絡願います。協同管理者と激論の末におそらくは善処致す所存候。
各関係者殿はコメント欄へ。




オルゴール演奏
鐘の鳴る丘(とんがり帽子)

長野県安曇野市
有明高原寮(少年院)附近
『鐘の鳴る丘集会所』より


きれいなオルゴールにより、その美しいメロディーがよく覚えられるではありませんか!素晴らしい。お年寄りにはちょっと聴き取りづらい‥かな‥。



◉外堀通り氏提供


◉videomag氏提供





曲名⇒ 串本節(くしもとぶし)

日本民謡流行歌


紀州は串本・大島の民謡で幕末頃に出来たものと云われる。
三味線に合わせたお座敷唄として大正末期頃には全国に広まり、様々の編曲のレコードや映画などにて大流行する。
数有るレコードから耳に聴き良いと感じた東と西の2枚を今回載せたく思います。


日本民謡流行歌
1930(昭和5)年6月

歌手:大阪南地 富田屋喜久治
三絃 富田屋小政
外囃子連中

日本ポリドール蓄音器株式會社
1930年盤
東京市大森区

◉minogawa141氏提供

----------続いて東の串本節---

日本民謡流行歌
1949(昭和24)年2月

編曲:服部逸郎
歌手:音丸
三味線豐吉(とよきち)
コロムビアオーケストラ

日本コロムビア株式會社
1949年盤
川崎市

◉0klz38氏提供


一.♬
ここは串本 向かいは大島
仲をとりもつ 巡航船
アラ ヨイショ ヨイショ
ヨイショ ヨイショ ヨイショ
(ハァ オッチャーヤーレー)


二.♬
お座敷唄になって各々の花街で唄い手が違いを出して歌詞順を変えたりしたのでしょうか。。
二番以降は各レコードの唄い手によって歌詞順番がバラバラで各々順不同になってしまっていますので割愛致します。





曲名⇒ 富士に誓う

流行歌戦時歌謡
1943(昭和18)年5~7月

作詞:大木惇夫
作曲:仁木他喜雄
歌手:伊藤久男
日蓄合唱団
陸軍監修記録映画『富士に誓う -
少年戦車兵訓練の記録-』

挿入歌


日本は最強の敵、米英と戦っているのである。この弥猛心(やたけごころ)を如何(いか)にせん。

日中戦争(支那事変)から太平洋(大東亞)戦争へ続く長い々々8年1ヶ月間の本格的戦争期間中に陸軍少年戦車兵学校は生まれた。
千葉で生まれ富士の麓(ふもと)に移転拡充する。

世界主要国(列強)が大戦争を行う中、若年青年壮年国民皆兵の時代に、当時の少年の心持ちはどんなであったのか。

冷静で確かな専門技術を要する戦車や飛行機、通信は、少年期からの鍛錬育成が特に望ましいと、列強各国には戦車兵と飛行兵、通信兵の専門少年軍学校があった。
欧米列強に伍する日本にも遅れて少年軍学校は登場する。

世界中の参戦国内外で華々しい戦果が報道され、街頭や学校においても専門少年軍学校への募集は為(な)された。

その様な世界情勢と世間の期待羨望の中、日本の青少年はその弥猛心を如何にせんや。

志願倍率数十倍という競争を勝ち上がり、少年達は少年軍学校に入校した。
残念ながら戦争末期に戦線に投入された少年戦車兵はあまり活躍は出来なかった。任地へ向かう途上で戦死したり、犠牲者も多い。

その時代の、選ばれ鍛えられた特別な少年達の高い誇りを刺激し、それに続けと国民学校、私立小学校や旧制中学校児童生徒なども当時愛唱した流行歌戦時歌謡です。

本当は『少年戦車兵の歌(酒井弘)』を載せたかったが、以前に発見した良い動画の音源がどんどん消えていってしまっているので、代わりの力作『富士に誓う(伊藤久男)』を今回紹介致します(こちらも以前見た動画音源がどんどん消えていましたが‥)。

この両曲共に上記陸軍監修記録映画『富士に誓う -少年戦車兵訓練の記録-』の挿入歌です。
平和なお茶の間で、平和な街中でこの曲を‥‥特に当時の方々に申し訳無いですが、

ともかくも平和な世界の中で、魂を鼓舞する伊藤久男先生の歌唱をお聴き下さい。


日蓄工業株式會社
(日本コロムビア蓄音器)
1943年盤
コロムビア(ニッチク)レコード
川崎市

◉hiro kawanaka氏提供


◉wary氏提供(2008年)


参考特別資料
映画『富士に誓う -
少年戦車兵訓練の記録-』


◉山本ひろみ氏提供


一.♬
希望輝く
東雲(しののめ)の

富士を(よ)誓(ちこ)うて
大和魂(やまとだま)

櫻(さくら)の華(花)と
咲き薫(かを)り

明日(あす)は門出(かどで)の
鐵獅子(てつじし)か

不滅の勲(いさを)
立てようぞ


二.♬
彈(たま)の霰(あられ)の
その中を

戰車進めて
勇(いさ)ましく

百萬(万)の敵
打ち砕(くだ)く

その日その時
その夢に

腕(うで)は鳴るよ
血は躍(をど)る


三.♬
御國(みくに)背負うは
この肩ぞ

命捧(ささ)げて
先駆(が)けて

大君(おおきみ)の辺(へ)に
起(た)つ者の

髙い誇りに
眉(まゆ)上げる

我等(われら)は
少年戰車兵






   

   


新習慣!まぶしい季節や露出の多い時に1日1粒。


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唱歌/童謡/流行歌/軍歌/戦時歌謡/等から必聴動画や歌詞を贈ります。


   



日蓄すだれレーベル参考1

ご無沙汰しています。
もう5月も15日、ここから唱歌/童謡/流行歌/軍歌/戦時歌謡/等から必聴動画や歌詞を載せて行きたいと思います。

今回は『月の国境(昭和11年)』『あのパラシュート(昭和17年)』『星の流れに(昭和22年)』
聴けば判(わか)る!豪華3本立てにてお贈り申します。

前記事に続き季節に合った唱歌をと思っていましたが、ここで趣向を変えて唱歌/童謡/流行歌/軍歌/戦時歌謡/にしたいと思います。
季節に縛られては自分の紹介したい歌をいつまでも紹介出来ないと今頃になって気付いたからであります。
m(_ _)m

往時を懐かしみたい方、そう云う曲を聴きたい方、介護施設等で利用したい方、そう云う方々の御供になればと思って居ります。無論初めて聴く方も世代も時代も関係なく、心の大歌手の本当の歌を聞かれませい。



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記事掲載後に不都合のある方は、その旨連絡願います。
協同管理者と激論の末におそらくは善処致す所存候。
各関係者殿はコメント欄へ。




曲名⇒ 月の國境

流行歌戦時歌謡
1936(昭和11)年2月

作詞:佐藤惣之助
作曲:古關裕而
編曲:奥山貞吉
歌手:伊藤久男

日本に無い大陸の広野(こうや)を心に見よ。我等が伊藤久男先生が朗々と謳(うた)い上げる。二番まで聴けば貴方(女)も此の曲の虜に。此れが古関メロディマジック!知るや男児の此の心!

日本コロムビア蓄音器株式會社
1936年盤
川崎市

◉akiraplastic5氏提供


一.♬
月の國境
小夜(さよ)更(ふ)けて

腰の軍刀(ぐんとう)
冴(さ)ゆる時

秋水(しゅうすい)
三尺(さんじゃく)
露(つゆ)拂(はろ)う

知るや
男児(だんじ)の此(こ)の心


二.♬
石の砦(とりで)に
よじ登り

見れば遥(はる)かな
地平線

茫漠(ぼうばく)千里(せんり)
滔々(とうとう)と

行(ゆ)く手
知られぬ黒龍江(こくりゅうこう)


三.♬
水は流れる
月は照(て)る

俺もなりたや
あの月に

日本の空を
宵(よい)に出て

更(ふ)けりゃ
曠野(こうや)の屋根の上


四.♬
見よや國境
皓々(こうこう)と

銀(ぎん)に輝く
明月(めいげつ)の

唯(ただ)一点の
曇り無き

知るや
男児の此の心





曲名⇒ あのパラシュート

戦時歌謡曲
1942(昭和17)年

作詞:山崎正
作曲:服部良一
歌手:菊池章子

きれいな曲です。乙女十八、18歳の菊池章子の歌唱に着目。
空の神兵の心を洗う純真乙女の此の一曲!戦争でも平和でも此の日本に、純心な乙女が居て欲しい!


日蓄工業株式會社
(日本コロムビア蓄音器)
1942年盤
コロムビアすだれレーベル
川崎市

◉akiraplastic5氏提供


一.♬
咲いた 咲いたよ
南の空に

乙女(おとめ)眞心(まごころ)
命を籠(こ)めて

縫(ぬ)って作った
あのパラシュート

今日の 今日のニュースに
泣きました


二.♬
細い この手が
この糸針が

お役立つ日を
心で祈り

ミシン踏んだよ
あのパラシュート

夢の 夢の蕾(つぼみ)も
咲きました


三.♬
窓を 開いて
南の空を

仰(あお)ぐ瞳(ひとみ)は
何時(いつ)しか濡(ぬ)れて

胸に浮かぶは
あのパラシュート

またの またの御手柄(おてがら)
賴(たの)みます





曲名⇒ 星の流れに

戦後流行歌歌謡
1947(昭和22)年10月

作詞:清水みのる
作曲:利根一郎
歌手:菊池章子

前述お嬢様菊池章子が唄う。乙女十八が5年でどうしてこうなった。敗けたから‥か。
こんな女に誰がした!

空の神兵の心を洗った純真乙女が今度は上野(うえの)ガード下の見捨てられた女達の心を戦災孤児の心を救う!そして敗戦後のすさぶ時代の心を今に映してくれる。

流行歌岸壁の母もこの人の大ヒット曲。将(まさ)に時代を映す大歌手だった。色を売らねば生きてゆかれぬ、戦争がこうしたのか。
敗戦国が私をこうしたのか。
何れにしても敗戦日本のせいに違いない。

色々の孤児が集まる終戦直後の上野ガード下のその荒(すさ)ぶ住人にも、確かにファンを作った本当の心を代弁できた歌手。

色々の大歌手がこれを歌っても結局上野ガード下の本当の雰囲気は誰も出せなかった。
時代が出せたのか、この人にしか歌えなかった!
敗戦より2年、純真乙女をこんな女に誰がした!


帝蓄工業株式會社(帝国蓄音器)
1947年盤
テイチクレコード
奈良市

◉akiraplastic5氏提供
本当に3曲共と、每度お世話になります!


従軍看護婦として女ながらに大陸を転戦し、敗けて命からがら生きて祖国の土を踏んだのに、空襲で母も妹も(この世に)もう居ない。

そして私はただ今日を生き抜く為だけに戦災孤児と塒(ねぐら)を共にし、上野のガード下で色を売って生きる。

配給制度も崩壊し頼る身も無く、絶望的にただ今日を生き抜く。

敗戦国の荒(すさ)ぶ時代を生き抜く為に生きた時代の女性に敬意を表し歌詞は割愛致します。
ぜひ心で聴いて泣いて、正しい歌詞は耳で盗んで下さい。

弱冠23歳でこれを歌えた大女性歌手に敬意を表して。
心で聴いて。





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『星の流れに』と同じ荒ぶ時代の昭和22年に創業しましたのが、広く国内外の諸兄姉の足元を彩り続けて70年、我等が国民的シューズメーカー『アキレス株式会社』です。


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大諸居拓吾郎

管理♤大諸居拓吾郎
☆☆☆
昭和から平成の
諸々の
おもろいこと、
おもんない事、

懐かしいことや
そうでもない事、

シリアスな記憶等、

当方の所感を
開陳発信をば
させて頂きます。



不許複製轉載



近代風に参ります。

大諸居拓吾郎商店
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一切の責任は

契約者当人並びに
契約先企業に在り

是、世界万民共通の
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従いたるに当ブログ
及び関連ブログの
管理者たる大諸居
拓吾郎商店グループは

それらに関わる
一切の責任を負わず

悪しからず
ご承知置下さるべく候


是、契約者及び
契約先企業並びに
其の仲介先企業に
対し、等しく宣言せり

公正なる商取引
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